連載

日本の協同組合の父「賀川豊彦」のこと

 日本の協同組合の父、賀川豊彦(1888~1960)については、これまで多くの人によって語られているので、ご存じ方も多いだろう。ここでは、賀川豊彦の知られざる一面(発禁処分を受けた激烈な文章、労働争議の敗北、労働者生協におけるビジネスセンス、信用組合を作ったこと、論敵大杉栄との友情など)を取り上げてみた。

  1. 発禁処分を受けた賀川豊彦の「労働者崇拝論」
  2. 受難の労働者生協~兵糧攻めにあった戦前の労働組合
  3. 賀川服をご存知ですか?
  4. 「法律違反」と指摘された賀川服
  5. 賀川豊彦が作った信用組合の話
  6. 賀川豊彦が作った「中ノ郷質庫信用組合」(前号からの続き)
  7. 大杉栄と鈴木文治・賀川豊彦との論争と友情
  8. 大杉栄と鈴木文治・賀川豊彦との論争と友情(前号の続き)

1 発禁処分を受けた賀川豊彦の「労働者崇拝論」

 日本の協同組合運動の父といわれる賀川豊彦。彼が生涯に発表した膨大な著作は「賀川豊彦全集」(24巻)に収められている。その中で唯一、発禁処分を受けた論文がある。1919(大正8)年「解放」8月号に発表した「労働者崇拝論」だ。当時は、「安寧秩序を妨害する」と政府が判断すればいつでも発売禁止にできたのである。
 第一次大戦で輸出が爆発的に増え、ぼろ儲けした資本家たちは5割から7割もの配当を受け取り、にわか成金が続出した。一方、インフレで追い詰められた労働者や庶民の怒りが爆発、米騒動や労働争議が頻発していた時代である。こうした騒然とした世情の中で書かれた「労働者崇拝論」は、激しい論調で資本家と政府を糾弾する。
 「金持ちは征服者のような顔をして、貧民労働者を・・工場で圧制する。労働者は、一日として休むことなく人間のためにパンを作り、織り、建てる、凡て人間が生きて居れるのは労働者のお蔭である・・労働者を崇拝せよ」。正義に燃えた筆は強欲な資本家を徹底して批判する。「資本家の首も命も、資本家の嫁入り道具も皆彼の長屋に住む彼の賤む者が生産したものである。それで、労働者は、その首と命と嫁入り道具に対しても所有権を主張し得るのである。資本家はよくそれを覚悟して居らねばならぬ」と。
 政府に対しても「今日では、大砲と軍用飛行機と潜行水雷艇と機関銃の学問が、人間をどうすれば愛し得るかという学問よりも発達している」「剣と強力で政治ができると思うのは根本的誤謬である」と批判する。こうした思想は、時の資本家と政府には許し難いと映ったがゆえに直ちに発禁したのである。
 敬虔なキリスト教徒で、神戸のスラム街で救貧活動を始めた賀川だが、社会を根本的に変えなければ労働者、農民は救われないと、その後、貧困を防ぐために労働運動、協同組合運動、農民運動に力を注ぐ。「救貧運動から防貧運動」へ生涯をささげ、平和を愛し「無抵抗の抵抗」を貫いた賀川でさえ、戦前は要注意人物として警察や憲兵隊の監視下におかれ、何度も拘留されている。
 「平和なくして協同組合運動はない」という賀川の確信はそうした経験から生まれたのだと、私は思う。(2017.9)

2 受難の労働者生協~兵糧攻めにあった戦前の労働組合

 労働組合が中心になって作った労働者生協のさきがけは、賀川豊彦の指導を得て1919(大正8)年から準備を始めた「購買利用組合神戸消費組合」である。この時期、第一次大戦後の恐慌による労働不安から労働争議が頻発するようになった。3万人の労働者が参加した戦前最大の労働争議は、大正10年6月その神戸で発生した。川﨑・三菱造船所の大争議である。友愛会幹部の賀川も先頭に立って闘うが8月に敗北し、神戸消費組合の組合員であった労働組合幹部が解雇され多くが神戸を去った。その結果、生協組合員に占める労働者の割合が激減、1万円以上の欠損金を出してしまった。賀川豊彦がその欠損金を引き受けた神戸消費組合は、その後労働組合員以外の市民が多数の協同組合、いわゆる市民生協となった。
 労働組合に対する弾圧は苛烈であったが、労働組合を基盤とする労働者生協も経営者や政府から抑圧されてきた。それは、労働者生協が労働争議の際、労働組合の兵站を担い、長期の争議を支えたためであった。大正13年に設立された千葉県野田市の野田購買利用組合は、1927(昭和2)年9月から8か月に及ぶ総同盟関東醸造労働組合(現キッコーマン)の大争議を支えた。経営者や右翼からの様々な妨害にもかかわらず、米・味噌・醤油・砂糖・茶・炭・うどん・薬などの生活必需品を配給し続けたが、争議敗北の打撃で消滅したのである。古来より戦(いくさ)の常道は「兵糧攻め」にあるといわれる。長期の争議を闘う労働組合が兵糧攻で敗北する姿を想像すればいい。余談だが、安保法制で「後方支援」だから危険でないと説明されるが、実は一番危ないのは兵站・後方支援なのだ。実際、アジア・太平洋戦争で日本軍が仏領インドシナに侵攻したのは中国への補給路=兵站・後方支援を絶つためであった。
 そして、労働者生協は昭和13年、戦時体制下ついに解散に追い込まれてしまう。市民生協は弾圧を免れたが、それとて戦後まで存続した生協は神戸消費組合(現在のコーこうべ)など数えるほどしかなかった。労働者・市民が自主的に経営・運営する生協は、権力者にとってそもそも邪魔な存在だったのである。(2015.9)

3 賀川服をご存知ですか?

 ここに一枚の写真がある。賀川豊彦が創案し、「共益社」で販売していた木綿の背広服である。賀川も愛用した現物が、松沢記念館に所蔵されている。
 1920(大正9)年11月、賀川は西尾末廣らとともに労働者生協である「共益社」を創設した。しかし、経営についての経験不足や組合員教育の不徹底、翌年の大阪電灯・藤永田造船所・住友伸銅所をはじめとする争議の頻発などから赤字を重ね、4年間で2万2千円もの損失を出し、解散の瀬戸際に追い込まれてしまう。大正13年、賀川がその負債を一身に引き受けて再出発したのであった。では、その負債はどのようにして償還したのだろうか。賀川のベストセラー「死線を越えて」の印税7万円(現在の10億円に相当か)が充てられた、と巷間いわれるがそうではない。印税は、賀川が指導し3万人の労働者が参加した大正10年の神戸川﨑・三菱造船所の大争議の敗北の後始末費用、大阪労働学校設立(その精神は大阪労働学校・アソシエにつながっている)、東京本所の産業青年会(現在の中ノ郷信用組合の基礎)、大阪四貫島セッツルメント(友隣館・教会・天使保育園の前身)・神戸友愛救済所(学校法人・社会福祉法人イエス団のルーツ)の建設、日本農民組合(全日本農民組合連合会に継承)の創設と人件費負担など、すべて社会運動に使われたからだ。
 実は、窮地を救ったのが、共益社で売り出した「賀川服」と呼ばれた冬用・夏用の背広服の販売利益だったのである。労働者にとって一着50円もする純毛の背広には手が届かないが、大中小のサイズにかかわらず三つ揃えの背広一着が5円程度で手に入る賀川服は、非常に歓迎された。最大で年間5万着も売れ、1930(昭和5年)末には赤字の2/3を償還したという記録が残されている。
ところがここで、厄介なことが起こったのである。次号に続く(2017.10)

4 「法律違反」と指摘された賀川服

 手ごろな価格の労働者向け背広「賀川服」に降りかかった難題は、法律違反の「員外利用」に当たるという指摘だった。販売元の共益社は、戦前の協同組合法である産業組合法による労働者生協であり、その定款で大阪市内に居住する組合員に限ると定めてあった。それなのに、市外の労働者にも販売していることが、組合員以外の利用を禁止している産業組合法に違反していると咎められたのだ。 
 頻発する労働争議で解雇された組合員は、職を求めて全国に散らばっていき、国内の転地先だけでなく朝鮮や満州からもひっきりなしに注文してくる。今まで共益社の組合員であっても、大阪を離れれば資格がなくなるので、法律違反の員外利用となってしまうのだった。
 さて、困ってしまった賀川豊彦。しかし知恵者である。1927(昭和2)年春に匿名組合「消費組合協会」を設立し、共益社の賀川服を消費組合協会を通して販売する方式に切り替えたのだった。協同組合である共益社は営業税が免除されているが、消費組合協会は税金をきちんと納めるわけで、誰からも法律違反と言われる筋合いはない。うまい仕組みを考えたものだ。
 賀川服の宣伝も実に上手だった。爆発的な人気を博した賀川の小説「死線を越えて」は東京や大阪で舞台化されたのだが、新国劇を創設した沢田正二郎や日活の人気俳優岡崎春夫にも賀川服を着せ、その写真をさりげなく見せて宣伝している。
 こうして、賀川服だけでなくワイシャツや靴、石鹸などの雑貨も取り扱った消費組合協会の販売額は毎年30万円以上にもなり、相当な利益を生んだのである。その利益から共益社に1万円以上寄付したという証言が残されているから、共益社の2万2千円もの累積赤字の解消に役立ったことは言うまでもない。
 消費組合協会の利益は、このほかすべて協同組合運動の普及に使われた。毎年5千円もかかった協会の機関誌「消費組合時代」の発行費用、学生消費組合や農村消費組合協会への寄付金、各地の消費組合設立費などに充てられたのだった。
 労働者のニーズに的確に応えつつ、巧みに事業を成功させた社会運動家賀川豊彦の見習うべき一面である。(2017.11)

5 賀川豊彦が作った信用組合の話

 1928(昭和3)年、賀川豊彦は東京本所に質屋と信用事業を兼ねた信用組合を設立した。その場所は当時、中ノ郷地区と呼ばれていたところから、「中ノ郷質庫信用組合」と名付けられた。現在は住所表示が墨田区東駒形4丁目に変わったが、今もその地に本店を構える「中ノ郷信用組合」である。
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災とそれに伴う火災で6万人近い犠牲者が出たが、その9割が焼死者だった。本所、浅草、神田、京橋、深川地区ではほとんどの市街地が焼失。特に避難民が殺到した旧陸軍被服廠跡(現在の横網町公園あたり)では、折からの火災旋風(火災と火の粉を含んだ竜巻)で何と3万8八千人の命がごく短時間に失われたのであった。
 震災の情報を神戸で聞いた賀川豊彦は、ただちに船で東京に赴き、10月19日には最も被害の大きかった本所に東京基督教青年会(YMCA)の支部として基督教産業青年会を立ち上げ、大テントやバラックを建て、被災者の救援活動を始めたのである。震災を機に、賀川の活動拠点は神戸から東京に移り、家族とともに本所に住み、無料診療所、職業紹介、法律相談、生協事業、さらには文化講演や英語教室、編物・裁縫の講習といった広範な教育事業など労働者の生活再建、生活向上、地域復興につながる事業を次々に発足させていく。
 そして、労働者の生活再建と地域復興を金融面で支えるべく設立したのが中ノ郷質庫信用組合だった。「近隣地域労働者階級の金融機関たらしめると共に地区協同社会の基盤たらしめたい願いをもってはじめたものである・・・この組合の名称も、極めて狭い範囲の地名(中ノ郷)を選んだ」と賀川は書き残している。こうして、「中小企業者や勤労者が、小さいながらもお互の信用を持寄り、扶け合いにより金融をはかり・・・営利を目的とせず・・・常に自助と協同を標語として組合員による民主的、自主的に経営を為すことを信条」に、中ノ郷質庫信用組合は発足したのであった。
 ところで、なぜ質屋と信用組合を兼営したのか、戦前からの信用組合が戦後ほとんど信用金庫に転換したにもかかわらず、なぜ現在も信用組合のままでいるのだろうか。これには訳があったのだ。この項続く。(2018.1)

6 賀川豊彦が作った「中ノ郷質庫信用組合」(前号からの続き)

 当時、質貸付を行っていた信用組合は全国で30組合ほどあったようだ。長野県の上田市信用組合(現在の上田信用金庫)もその一つである。上田市信用組合は、通常の信用事業では救いえない小零細業者や庶民の存在することを知り、1926(大正15)年、別に共同質庫信用組合を設立したのだが、役職員は兼務であった。出資金一口1円を一回10銭宛10年間に払い込む、貸付限度額100円、弁済期間は6か月、事情によってはさらに延期するという庶民にとってありがたい協同組合組織であった。
 上田の事情を学んだ賀川らは、中ノ郷地区は質屋を必要とする零細業者や労働者が多く住む地区だったゆえ、ただちに質庫信用組合の設立にとりかかったのである。当時、東京にはおよそ2千軒の質屋があったが、協同組合組織の質庫信用組合(質屋)は初めてだった。一般的な庶民の金融は質屋しかなかったとはいえ、質草を持っての質屋通いは世間体が悪いと思われていた時代である。そのため、あまり人目につかないようにと中之郷質庫信用組合は、表通りから一本入った場所で営業を始めた。今日の金融機関はこぞって表通りに店舗を構えているが、中ノ郷信用組合の本店が今でも目立たない場所のままにあるのにはそういう背景がある。
 1951(昭和26)年に信用金庫法が出来た時、信用金庫になるか信用組合のままでいくか議論になった。しかし、質屋と信用金庫ではそれぞれ異なる金利規制が定められており、質屋の金利は信用金庫の上限金利を大きく上回っているので、質庫を兼営している限り信用金庫に転換できないのであった。信用金庫に移行していく資格は十分にあったのだが、質屋という庶民の小口金融を継続する道を選んだ結果、あえて信用組合にとどまることにしたのである。もっとも、消費者金融の出現などの社会情勢の変化もあって質貸付の衰退は年々激しく、昭和47年、ついに質業務を完全に廃止することになったのだが。
こうして、賀川豊彦が蒔いた質庫信用組合の種は、90年後の今も中ノ郷信用組合として立派に花を咲かせながら、地域の中小事業者・庶民の金融を支えて続けている。(2018.2)

7 大杉栄と鈴木文治・賀川豊彦との論争と友情

 戦前の労働運動や協同組合の歴史に関心のある方なら、思想家・労働運動家大杉栄の名前はご存じだろう。だが、友愛会総同盟の鈴木文治や賀川豊彦とも交流があったことを知る人は少ない。
 1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災後の9月16日、大杉は、憲兵隊司令部で甘粕正彦大尉らによって妻・甥とともに惨殺された(甘粕事件)。労働者生協「共働社」を作った平澤計七ら10名の労働運動家たちが、亀戸警察署で虐殺された(亀戸事件)のに続く事件だった。大杉殺害は甘粕の単独犯とされ禁固10年の判決を受けたが、3年弱で仮釈放されている。戦前の日本では、労働運動・社会運動家に対する警察や軍隊の拷問や殺人はほとんど不問に付されるのが常だった。
 この頃、大杉は、政府から無政府主義者(アナキスト)の烙印を押され、特別監視の対象にされていた。彼の書いた論文や書籍、翻訳本の多くは発禁処分を受け、発言の機会を封じ込まれていたのである。本来、無政府主義は「中央集権的な上下の支配関係ではなく、上下関係のない水平的な人間社会をめざす」考え方であったのだが、政府は、アナキスト=国家の存在を否定=暴力革命=テロリストのレッテルを貼り、大杉をその頭目とみていたのだった。
 いっぽう、労働運動における大杉は、友愛会総同盟やマルクス主義者に対して、激しい批判と行動を繰り広げていた。たとえば、新聞「労働運動」(大正8~9年)に書いた「労働運動家鈴木文治論」、「賀川豊彦論」で、鈴木・賀川に対する辛辣な批評を行っている。また、行動も奇抜だった。労働組合の集会に一聴衆として参加しつつ、演説者に対して会場から論争を仕掛け、立往生させることが度々あったという。他人の演説会を乗っ取るやり方は、「演説もらい」といって煙たがられていたようだ。
 批判の矛先は革命を起こしたロシアのレーニンにも向けられる。「極端な専制帝国であったロシアにはやはり極端な専制共和国が生まれた。マルキシズムは民衆が自分の運命を作っていくことを決して許すものではない」と。
 ところが、鈴木や賀川は大杉に対して不思議と好意的な態度をとっているのである。以下次号で。(2018.3)

8 大杉栄と鈴木文治・賀川豊彦との論争と友情(前号の続き)

 大杉栄は、「資本と労働は協力調和というよりもむしろ一致融合すべきものである。しかしこの関係は決して資本家と労働者との関係ではない。この二つの関係はまったく別々のものである」と言う。鈴木文治や賀川豊彦にはその区別がないために、資本家と労働者の調和=労資協調論になるのだと批判する。
同時に、争議指導の方法にも疑義を差し挟む。工場内の労働者から交渉権限を取り上げ、資本家との一切の交渉を請け負ってしまう。これでは労働者自身の自主性が育たないと酷評する。「労働者には自主自治の観念が薄く、とかく中央集権的、強権的な思想感情に陥りやすい。自分のことは自分でするというしっかりした自主心がなければ、労働者は旧社会破壊の道具にだけ使われてしまう」と大杉は心配するのだ。
 つまり、大杉の鈴木・賀川批判は、幹部請負型の中央集権的手法か労働者の自主性を尊重する分権自治的手法かの違いにその核心がある。だから革命を起こしたロシアに対しても、共産党を頂点とする中央集権的な専制共和国が生まれただけだと批判したのだった。
 では、大杉の分権自治的手法とはどのようなものだったのか。「いっさいの社会問題、いっさいの労働問題は、資本と労働との分割に帰因する。したがって、そのもっとも徹底した解決法は、この分割の廃止、すなわち共同資本と共同労働とになければならない」。大杉は、自分たちで資本を持寄り、自分たちで働きながら経営するという「労働者協同組合」を展望していたのである。
 それでも、鈴木は大杉のことを「世事を気にせず、明るく、世間離れした趣があり、あっさりしていて、名誉、利益などに執着せず、純情で、情熱的で、生一本な性格で多くの労働者を引き付けていた」。また、「演説もらい」の手法についても「無政府主義者に、ほとんど言論の自由が認められなかった当時としては、これもまたかなり有力な宣伝方法であった」ときわめて好意的に評価している。
 賀川も、事件後の「改造」11月号の「大杉栄追想」に「可愛い男大杉栄―悪口言われても悪い気はしない」と寄稿している。論敵にもエールを送る鈴木や賀川の友情と懐の深さに見習うところは多い。(2018.4)

高橋 均(たかはしひとし)

労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長

1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
    現在 同講師団講師

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