連載

いくつか感じたこと

 これまでの分類に直接当てはまらないけれど、労働組合や協同組合にとって忘れてはならない出来事を記したものである。

  1. 現行憲法に生かされた高野岩三郎の憲法草案要綱~期成会、総同盟に流れる立憲主義の精神
  2. 東京労金誕生秘話
  3. 市民に拍手されたストライキ~プロ野球選手会と電産の電源ストライキ
  4. 「団結ガンバローと万歳三唱の起源」
  5. 北海道拓殖銀行破たんと武井正直~バカな大将、敵より怖い

1 現行憲法に生かされた高野岩三郎の憲法草案要綱
~期成会、総同盟に流れる立憲主義の精神

 日本における労働組合の嚆矢は、1897(明治30)年に高野房太郎らが作った労働組合期成会である。房太郎は同時に、わが国最初の労働者生協である「共働店」をも開設した。しかし、悪名高い治安警察法によって4年後に、期成会も共働店もつぶされ、房太郎は中国で客死する。2歳違いの弟高野岩三郎は房太郎の仕送りを受け苦学して東京帝国大学を卒業、大原社会問題研究所の初代所長となった。
 岩三郎は、敗戦直後に鈴木安蔵らと憲法研究会を立ち上げ、1945(昭和20)年12月26日憲法草案要綱(国会図書館所蔵の原本はネット上で見ることが出来る)を発表し、内閣やGHQにも届けている。日本国の統治権は日本国民より発し、国政の最高責任者は内閣、天皇は国民の委任により国家的儀礼を司るとしたうえで、国民の権利義務の項目には、法の下の平等・信教の自由・労働の義務・8時間労働の実施・生活保証の権利・男女平等・人種差別禁止等々、およそ現行憲法に盛り込まれている内容が網羅されている。「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」などは現行憲法第25条そのものである。
 GHQは日本占領の実態を膨大な報告書で残しており、それは「GHQ日本占領史」(全五六冊:日本図書センター)として翻訳されている。公職追放、財閥解体、農地改革、教育、労働組合運動など55の分野ごとの詳細な報告書だ。もちろん「憲法制定」もその一冊で、この憲法草案要綱がGHQの「基本文書を起草した担当者たちにかなり利用された」(44頁)と記述されている。また、公布された憲法の普及のために作られた「憲法普及会」の会長には総同盟会長で衆議院議長の松岡駒吉が就任した。
 明治初期に国民の権利保障を重視した五日市憲法を起草した千葉卓三郎、労働組合創始者高野房太郎につながる憲法研究会の人びと、総同盟など日本には立憲主義、人権思想を重んじる滔々と流れる地下水脈があるのだ。
 GHQの押し付け憲法だと言いつのり、立憲主義とは真逆の国権を振りかざす政党があるが、こうした日本人の底流にある思想をご存じなのだろうか。憲法の根幹が揺らいでいる今こそ、立ち止まって考えたいと思う。(2015.7)

2 東京労金誕生秘話

 今でこそ預金量18兆円、12兆円の融資額となった全国の労金であるが、発足当初は出資金と預金集めに、労働組合役員や労金職員は組合員を説得するオルグ活動に奔走しなければならなかった。
 1952年5月1日に営業開始した東京労金とて例外ではない。初代理事長には大蔵省出身の今井一男が就いた。中央金庫的な性格を持つため、理事長は労働組合出身者ではなく中立的な人がいいと担ぎ出されたのであった。確かに、副理事長には高野実総評事務局長や日本生協連専務の中林貞男(後に日本生協連会長)、また顧問にはわが国の生協生みの親といわれる賀川豊彦が就任するなど、他の金庫とは異なった布陣となっている。
 さて、東京労金誕生秘話。開店まで数日となった4月下旬、不動産会社に支払う本店店舗の買収資金が300万円不足していることが判明。切羽詰って、副理事長の中林貞男は労金設立に尽力してくれていた労働省会計課長の飼手眞吾を訪ねた、「一時貸してほしい」と。「俺も東京労金のことでは今井さんの引っ張り出しからいろいろ相談に乗ってきた。男と男の約束だ、1週間か10日で必ず返すんだよ」。何と会計課長の一存で300万円を用立ててくれたのだ。もちろん、公金流用だから許されないことは承知の上である。後で今井理事長に報告に行くと「頼みに行く者も行く者だし、貸す者も貸す者だ、判をついたら俺も同罪だ」といって判を押してくれたという(飼手眞吾追想集1983年)。東京労金20年史の中で、元常務理事が「300万円本店店舗の買収資金が不足して、あちこちかけずり回り開店に間に合わせた」と証言しているから、事実に相違あるまい。危機を乗り切った開店当日は、奇しくも労働運動史に残る「血のメーデー」事件の日であった。
 戦後の混乱期、分立する労働組合と生協が一緒に汗をかいて作ったのが労金であるが、その裏に労働省の協力があったことも記憶にとどめておきたい。発足当初の労金協会事務局が労働省の中に置かれていた事実を見ても、労働省の協力があったことがわかる。
 質屋と高利貸しからの解放をめざして、労働金庫を作ろうと奔走した労働組合、生協、労働省・大蔵省の改革派の官僚たち。夢を実現させるために時代を駆け抜けたその行動力に、われわれは今一度学ぶ必要がありそうだ。(2015.5)

3 市民に拍手されたストライキ
~プロ野球選手会と電産の電源ストライキ

 2004年9月のプロ野球選手会のストライキを覚えておられるだろうか。スト中の球場に集まった市民から選手たちが拍手で迎えられたストライキだ。選手会がスト決議をした直後の7月14日、松原事務局長と顧問弁護士が連合へ相談に訪れた。「争議権は確立しましたか?」「はい、各球団とも三役一任を取り付けています」「それではだめだ、一票投票しないと違法になる」。その場で、スト権投票用紙のひな型を渡したことを覚えている。そして、投票用紙を持って午前中は二軍に午後は一軍選手に、選手会や事務局が奔走してスト権を確立したのであった。古田選手会会長が連合笹森会長を訪れ協力を要請した8月12日、選手会はスト権が確立したことを日本野球機構に通告した。巨人軍オーナーの「たかが選手が。ストライキどうぞどうぞやったらいい」発言も飛び出し、市民は圧倒的に選手会を支持するようになる。9月18~19日の全球団ストライキに市民は拍手で応援した。19日、銀座ヤマハホールで選手会が開いた報告集会には、会場に入りきれないほどのファンが集まった。結果、9月23日、12球団維持で選手会と日本野球機構が合意、闘争は妥結した。「一票投票しなければ違法だと主張しようと思っていたのに、誰が知恵をつけたのか?」とは当時の球団関係者から最近聞いた話だ。
 時代は戦後直後に遡る。いわゆる「電産型賃金」を闘い取った1946年10月の電産(日本電気産業労働組合協議会)闘争では、停電ストライキの戦術もとられた。その闘いは「われら電気労働者」という記録映画に残されている。電産幹部だった後の民社党委員長佐々木良作が演説している姿も映っているが、中に興味深いシーンがある。停電ストで上映中の映画が消え館内が真っ暗になった瞬間、観客から拍手が巻き起こったニュース映像が挿入されているのだ。戦後の物不足とインフレに悩まされていた市民は、迷惑な筈の停電ストライキにも連帯の拍手を送っていたのだった。
 古今を問わず人々の心に伝わる労働運動は、ストライキさえも共感を持って受け止められる。二つのストライキから学ぶことは多い。(2015.6)

4 「団結ガンバローと万歳三唱の起源」

 労働組合の集会の最後は「団結ガンバロー」で締めくくるのが定番になっている。この作法・動作はいつごろ始まったのだろうか。
 労働歌「がんばろう」は、1960年6月の三井・三池争議の最中に作られた。「がんばろうつきあげる空に、くろがねのこぶし・・」ではじまる歌詞を覚えている方は多いだろう。この争議を支援するために全国から集まり、がんばろうを歌った2万人の労働組合活動家たちが地元に戻り、ガンバローが急速に普及したのであった。実際、翌年8月の総評大会の閉会時に初めて、労働歌(インターナショナル)の合唱に続いてこぶしを空に突き上げる「団結ガンバロー」が叫ばれた。
 では、それまでの総評大会はどうだったのだろうか?1960年8月の閉会は、何と「万歳三唱」をもって終わっていたのだ。1948年8月の総評新聞にも、「太田議長の音頭で万歳発声に一同唱和三唱」したと記録されているから、戦後しばらくの間、労働組合では万歳が多く使われていたと思われる。
 「万歳」は中国では君主の長寿を祝うために昔から使われていたのだが、日本で使われたのは意外と新しい。1889(明治22)年の国会開設時に明治天皇に向かって臣下が唱和したのが始まりだという。戦時下、出征兵士を「万歳」で見送ったのも、国会解散で「万歳」を叫ぶ習慣も、天皇に向かって行うことにつながっている。
 その天皇を祝する作法であった万歳が、戦後一転、左派といわれた総評大会で、しかも太田薫議長の発声でおこなわれていたとは驚きだった。
 とはいえ、労働組合が分立していた四団体時代でも、中央メーデーだけは統一して行われており、そのメーデー宣言には「メーデー万歳」が記されるのが普通であったから、戦後は左右を問わず万事めでたい時に「万歳」が使われるようになったのではなかろうか。
 この他、三本締め、一本締め、エイエイオー、拍手なども使われていたのではないかと推察されるが、戦後の総同盟や産別会議ではどうしていたのであろうか?ご存知の方があれば教えていただきたいと思う。そして、まだ探究は続く。(2015.4)

5 北海道拓殖銀行破たんと武井正直
~バカな大将、敵より怖い

 筆者が連合本部に赴任した直後の1996年10月、戦後初めて銀行が破たんした。和歌山県内の3つの無尽をルーツに持つ阪和銀行だ。当該労組が連合加盟組合だったこともあり、連合和歌山と一緒に組合員の退職金確保や再就職に奔走したことを覚えている。翌年11月、土地バブル崩壊で行き詰った北海道拓殖銀行が破たんした。拓銀労組は連合加盟ではなかったが、「何かお手伝いできることがあれば」と連絡したところ、何と折り返し会社の広報から電話があり「取り込んでいますので結構です」。労組の自立性のなさに唖然としたものだった。
 その拓銀を救ったのは、無尽から戦後相互銀行を経て銀行転換した第二地方銀行の北洋銀行だった。「土地がこんなに値上がりする実態の伴わない『偽りの経済構造』は異常」とバブルに踊らなかった頭取の武井正直は、バブルが崩壊するまで変わり者扱いされていたという。しかし結局、堅実経営の道内三番手の北洋銀行が「拓銀さま」と呼ばれていた巨大バンクを吸収することになる。まさに「小が大を飲み込んだ」のであった。
 武井は、地価や株価の上昇を当て込んだ「浮利を追う」事業を極端に嫌った。また、旧満州で敗戦を迎え、「リーダーの判断ミスは組織の命運を左右する、もっと怖いのはリーダー自身が『誤り』を認められず、部下たちも誤りを指摘できず、ずるずると傷口を広げてしまう」ことを目の当たりにした。だから社内では口癖のように「バカな大将、敵より怖い」と言い、「法律、人倫にもとる命令は、たとえ上司でも従わなくて結構だ」と言い切った。
 2001年1月、連合北海道の新年交歓会で来賓あいさつに立った北海道経営者協会会長でもあった武井は「リストラする経営者には、『あなたこそ辞めた方がいい』と言ってやりない」。どうせ経営者のお決まりのあいさつか、と思っていた組合幹部たちは一瞬意表を突かれ、その後拍手と笑いで和やかに盛り上がったという。(バカな大将、敵より怖い、武井正直講演集)
 武井正直は2012年86歳で亡くなった。アベノミクスの狂騒に浮かれている日本社会の現状を、きっと泉下で嘆いているに違いない。(2015.10)

高橋 均(たかはしひとし)

労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長

1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
    現在 同講師団講師

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